前回、「教育師長としての転職 -人生の棚おろし㉘-」では、あるグループ病院に教育師長として職を得、活動していく中で、学ぶ必要を実感して大学に編入学したり大学院に進んだりしたことを書きました。
今回は、大学院に在籍していたころのことを書いていきます。
前回の記事にもあるように、看護教育を学びたくて進学を決意したのにもかかわらず、いざ合格し奨学金の手続きをしている最中に、教育師長から降格となり他のグループ病院に主任として異動となってしまい、失意の中4月を迎えることとなりました。
本来ですと、大学院修士課程入学という新鮮な気持ちで4月を迎えるはずが、異動を通達された前年の12月末からずっと、釈然としない気持ちを持ったまま過ごして4月を迎えてしまったという感じでした。
4月1日から新しい職場となり、環境にも人にも慣れないまま、大学院の授業が始まりました。職場環境と新しい仕事は色々な面で重苦しく大変でしたが、大学院の授業はとても興味深く面白い内容で、毎日仕事が終わると軽く腹ごしらえをしてから大学院に向かい、夜の最後のコマの授業を受けて21時半ごろ大学院を出るという生活が始まりました。
異動になった表向きの理由は、「異動先の病院が大学院の徒歩圏内にあること」というものでした。夜の授業にも間に合うだろうということだったわけです。しかし実際は、私の取った授業はすべて19:45から始まる最後のコマだったので、それまで勤務していた病院の業務を終了してから通ったとしても充分間に合っていたことになります。結果論ですがなんだがやるせない思いになったのを覚えています。
実際、異動の理由は他にもあったと思います。大きなグループでしたし、微妙な力関係のバランスのもと、何人かの人の思惑が働いたのだと思います。でも、もう異動させられてしまったわけですし、いろいろ考えても仕方ない状況でしたので、とにかく目の前の勉学に集中し、仕事はあくまでも収入の糧というように考えるよう勤めていたのがこの頃です。
職場は港区にあり、独特な雰囲気がありました。有名人がよく来ることで名の知れたところというのも理由の一つなのか、職員にもスノッブな人が多かったように思います。
私は看護師になってからずっと、職場では自分に課せられた仕事を確実に行うことだけを考えてきましたし、患者さんやスタッフといった対象のために何ができるかを中心に考えていました。しかしその病院に異動になって、そういう人たちばかりではないんだということに気づかされます。
まさしく、昼の連続ドラマを観ているような、女同士のどろどろした心理的戦いだとか、病院の既得権益を利用してのし上がろうという輩から発せられる独特の波動に驚き、気分が悪くなったことも一度や二度ではありませんでした。
よそ者を受け付けないような文化もありましたし、私のようなグループ病院から移動してきたよくわからない人間は受け入れないというような、言葉では言い表せないような集団としての意思のようなものも感じました。
もともとすでに出来上がっている大人数の組織に入り込み、自分から溶け込むことが困難な性質でしたので、とにかくこの迎え入れないぞという強固な雰囲気に圧倒されてしまい、最後まで馴染めなかったものでした。
仕事は主に声帯を中心に診ている外来での業務で、忙しくはありましたが勉強になったこともありました。そこでは一部のスタッフと仕事をこなす中で信頼関係ができあがり、良いチームワークで仕事をすることができたので、あの病院に異動した中で唯一の収穫といってもいい関係性が築けました。
ですがやはり、職場にいる時は居場所がないという感覚が否めず、大学院の課題を仕事の合間にこなしながら、辛い思いをしていたものでした。
大学院の課題は膨大な量があり、フルタイムで仕事をしてから大学院の授業を受け、夜遅く帰宅し食事をしてから課題をこなし、入浴して午前3時頃就寝するという生活をしばらく続けていました。3時から6時まで3時間くらい眠れるときはラッキーで、朝早く起きて残りの課題をやっつけたこともありましたので、少ない時で睡眠時間は1時間半ということもあったかと思います。
努力のせいか、なんとか単位を落とすことなく1年目が修了し、修士論文に集中する2年目に入りましたが、私のチョイスした研究方法がとてつもなく大変で、とてもフルタイムで肉体労働をしながらこなすことは難しいほどのボリュームになってしまったのです。
精神的にも肉体的にも追い詰められ、ついに夏場になって長い風邪をひき、巨大口唇ヘルペスができるという状況に陥ってしまいました。体力は限界を超え、睡眠不足のまま通勤し課題をこなす生活は、あと半年というところで破綻します。
そしてついに、このままでは修士論文が完成できないと考え、思い切って退職することに決めたのです。
収入が途絶えてしまうことや、退職する場合借り受けた奨学金を全額返金しなければならないというハードルもありましたが、お金はなんとか工面することができ、生活費もアルバイトで稼ぎながらしのぐことで手を打ちました。
こうしてなんとか時間を工面し、修士論文は最後の追い込みを迎えて、内容的には不充分ながらもなんとか修了することができたのです。
本当に辛くて苦しい2年間でした。我ながらよく乗り越えたと思います。いろいろな試練が顕れたことは私の人生の青写真にあらかじめ設定されていたものだったのか、それとも人生の逆風だったのかはわかりません。でも、乗り越えたことは確実に自信になりましたし、今となってはいい思い出です。
無事に修士課程を修了し、次の就職先を探すことになったのですが、ここでまた運よく偶然のめぐりあわせが発動することになります。今まで頑張ってきたご褒美だとその時は感じ、ありがたく次の職場にお世話になることにしたのがこの頃です。
次回、「トップマネジメントへの道が開かれた -人生の棚おろし㉚-」では、看護部長として働くこととなった次の職場でのことについてお話ししています。
最後までお読みくださり、ありがとうございました(^^)
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