ここ数日で、境界の引き方やケガレの概念などについてのblog記事やFB投稿を立て続けに目にしました。
そのうちの一つに、私のライフコーチ仲間の小川道子さんの「自分がケガレている、とどこかで思っていませんか?」(リンク先参照)という記事があります。
古事記に登場する 伊邪那岐 (イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神さまの逸話を通して、ケガレの解釈についてお話ししていますので、ご興味のある方は是非読んでみてくださいね♪
そしてちょうど一年前、前の職場で心身ともに消耗していた頃、自他の境界線を上手く引けない状態に陥り(エンパスでHSP特有のヤツですねw)、修士課程時代に学んだ概念を用いて境界線を引く方法について書いたnoteの記事があります。
なかなか面白い解釈だと思うので、今日はその記事をまるっと転載してblog記事に代えさせていただこうと思います。
あなたの生きる道で、何らかのヒントになったら嬉しいです^^
「ケガレと境界
―自分と自分でないもの―」
神社仏閣が好きで、時間のある時はなるべく参拝するようにしています。
今日は連休初日ということで、新年になり初詣に行ってからまだ2週間も経っていないというのに、あっという間に俗世で穢れを背負ってしまった我が身と心を清めるために、神さまと仏さまに会いに行ってきました。
お経をあげてもらったり、合唱して真言を唱えたり、神社の鳥居をくぐったりすると、心が清浄になって、自分の深いところにあるものと向き合えるような気がするとともに、本当に穢れが落ちたと感じることができます。
でも人間って、「人の間」に在るものなので、結界の張られた清浄な空間から外に出たとたんに、いろんな穢れを再び纏ってしまうんですよね。
好むと好まざるとに拘らず。
今日も、とてもスッキリしたいい気分で家に帰ってきたのに、職場の人と電話で話すことになってしまい、決して愉快とはいえない内容の話をひたすら聞くという1時間55分あまりを過ごしたところ、どっと疲れてしまいました。
せっかく落ちた穢れが、あっというまに戻ってきたような感じ。
三連休の初日だというのに、組織のことを考えてどんよりしたくなかったんだけどなー・・・・
ということで今回は、【穢れ】をテーマに書いてみようと思います。
一般に「けがれ」というと、汚いという意味に使われますが、この「きたない」というのは、物理的な汚さとそうでないものに分けられます。
物理的な汚さというのは、悪臭がするとかベタベタするとか見た目が悪くなるとか、いわゆる「きたない」と表現される代表的なもので、視覚や嗅覚や触覚で認識することができるわかりやすいものです。
しかし一方で、感覚的に「きたない」と表現されるものは、その境界や定義が曖昧なのが特徴です。汚い手を使うとか、汚い心を持っているとか、そういう目に見えないものに対する「きたなさ」はもちろんですが、それ以外にも食べこぼしの「きたなさ」とか抜けた髪の毛の醸し出す「きたなさ」などは、実際に食べ物や髪の毛そのものは汚くないのに、何故だか汚れている、汚い、と捉えられますよね。
唾液などもそうです。本来は口の中を清潔に保つために不可欠なもので、食べ物を咀嚼して唾液と混ぜ合わせ食塊を作り嚥下するという役割を担うものであるのにもかかわらず、飛沫が飛んだりすると汚いと思ってしまいます。もちろん感染などの意味合いからそう捉えられることもありますが、口から出たとたんに汚いという認識になってしまうわけです。
修士課程で学んでいたころ、文化人類学者の先生の講義の中で、きれいときたないの境界線はどこにあるんだろうという議論をしたことがあります。お皿に盛られて口の中に運ばれた食べ物はきれい。取り損ねてテーブルの上にこぼした食べ物はきたない。頭皮から生えているサラサラのロングヘアはきれい。抜け落ちて床にちらばっている長い毛はきたない。
同じものなのに、どうして今まできれいだったものが、一瞬にしてきたなくなるのか。その理由はその「もの」が、ある境界線を越えるからなのだそうです。
きれいときたないの境界線、それは、「自分」と「それ以外」の間にあります。自分の中にあるものはきれいであると認識されますが、自分の外に出たとたんにきたなくなるのです。抜けた髪の毛、口から出た唾液、それらは体外に出たとたんに汚くなります。
実際にはその「もの」たちの性質が急に変わるわけではないのに、私たちの感覚が「自分以外のもの」をきたないと認識し遠ざける。
それは「汚れ」だけでなく、「穢れ」にも当てはまります。
例えば、電車で隣に座った人を好ましくないと思ったとする。その人が居眠りしてもたれかかってきたときに感じる「きたない」という感覚、これが「穢れ」です。
また、ケガレは「ケ・ガレ」ともいわれ、ハレとケ のケ=日常が枯れるという意味にも取れます。ケが枯れる、つまり日常が営めない状態、人が死んで忌みの期間にあるうちは、ケガレている状態であると考えられています。
そして人は、日常が営めない状態が長く続くと困るので、ある一定の期間が過ぎると、ケガレが取れてケに戻るというルールを作るようになりました。それが禊です。喪に服する期間がこれにあたります。
そして、穢れを「祓う」という行為を行うと、きれいな状態に戻すことができるという概念も生み出しました。
子供のころ、汚いものに触れた友達に対し、「えんがちょ!」と言って逃げた経験はありませんか? あれは結界を張って穢れを遠ざける行為であり、また結界を張り遅れた子供は、汚れた子供に触れられることで「穢れ」がうつると考えられていました。最初に汚いものに触れた(犬のフンを踏むなど)子供は物理的に汚いかもしれませんが、その子に触れられた別の子は物理的なきたなさからはフリーであるにもかかわらず、きたなさがうつったと考えられていた。これが「穢れ」です。でも、その穢れも時間が経つか別の子に触れることで消えてしまいます。子供の世界は時間の流れが速いですから、気付くとさっきまで「えんがちょ!」と言われていた子も、一緒に遊んでいたりします。一定の時間が経てば禊が終わったとみなされるため、あるいは他の子に触れることで穢れが祓われたとみなされるためでしょう。
自分以外の人から吹き込まれる、きたない言葉や悪意の伝わる会話などを耳にすることで、自分の魂が「穢れ」るような気がするのは、おそらく気のせいではないと思います。
だから穢れる前に結界を張って、なるべく穢れを寄せ付けないようにした方がいい。
それが神さまや仏さまに会いに行って、自分の奥底を見つめることにつながるのではないかと思います。
さらに、残念ながら結界を張っても入り込んでくるものについては、それを祓うためにお詣りをしたり、お清めをしたりすることも理にかなっているといえます。
人は誰しも誰かに多種多様な影響を与えながら生きているもの。
誰かにしたいいことも悪いことも、必ず何らかの形で自分に返ってくることを考えると、誰かを鏡として自分の発した何かが穢れとなって反射してくることもあるかも知れません。
境界を越えて出入りする自分以外のものに対して、正しい形で相対したい。
自分を守りながら他者も大切にする、そんな大人になりたいな。なれたらいいな。
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