前回の記事、「看護師としてのスタート」では、国家試験に合格し看護師として働き始めた頃のことを書きました。
今回は、最初に就職先の病院を辞めた時の話です。
部活動の盛んな病院で、仕事の傍ら楽しい時期を過ごしていた新卒3年目の私に、転機が訪れます。
仕事のタスクが多くなってきて、負担感がのしかかってくるという出来事です。
卒後3年目にもなると、仕事がだいぶ楽しくなってきて、学生指導や病棟内の係活動、プリセプターとしての働きなど、期待されることが増えてきます。
私は意外とそれを受け入れ、役割を与えられ信頼してもらえることが嬉しくて、打ち込んでいる時期がありました。
院内のボランティア活動にも参加し、夏祭りやクリスマス会などにも積極的に参加したものでした。
しかし同時にその頃は、実家の方のトラブルがいくつか表面化していた時期でもあったのです。
母の入院・手術から始まり、両親の離婚と続きました。
弟が二人いましたが、すでに自立しているのは兄弟の中で私一人だったので、私が父親・母親双方に金銭的な援助をしていました。援助するのが嫌なわけではありませんでしたし、金銭的に余裕がないわけではなかったので、役に立てるならと頑張っていました。でも、少しずつどこかがずれ始めていたようです。
仕事が面白いのはいいことですが、役割が増大していたこと、プライベートでも負担感がのしかかってきていたことなどがきっかけとなり、心の中で何かが少しずつ変わり始めていたそんな時、バンドメンバーの一人ががロンドンに行くことにしたという話を聞いたのです。
実は社会人になってからもバンド活動はしていて、週1回の練習と定期的なライブを行っていましたから、バンドメンバーとはよく会っていました。ベースを担当していたメンバーが、以前からのあこがれだったロンドンに医療系ボランティアをしながら語学を学びに行くという1年間のプログラムを見つけ、私に話してくれたのです。
その話を聞いた瞬間に、私は心惹かれました。次の瞬間にはもう「私も行く!」と言っていました。渡航費などもろもろで100万円ものお金が必要でしたし、両親に経済的援助をしなければならないという足かせもありましたが、それはそれ、自分たちで何とかしてもらおうと、いい意味で割り切ることができていたのです。
自分の人生、やりたいことをやりたい時にならなければ後悔する、そんな気持ちになっていたのだと思います。
情報を集め、渡航時期を決め、すべてを段取りしてから、母に報告に行きました。これは相談じゃなくて、報告だから。もう決めたことだからと話したのを覚えています。だからお金が送れなくなるけど、何とかやっていけるかどうかをたずねましたが、それは何とかなると言ってくれました。娘が海外に行くというのは心配だったと思いますが、私の決意が固かったためか、反対することはありませんでした。
父にも報告し、卒後4年目に入った6月に仕事を辞め、渡英しました。
職場の師長に話す時も勇気が必要でした。とても厳しい師長だったので、新人の頃は怖い存在でしたが、私の成長を認め喜んでくれた師長だったので、退職の話をするのは少し胸が痛んだものでした。でも私の決断を尊重し、快く送り出してくれたので、とても感謝しています。
今回はここまで。
次回、「ファザコンであることを実感した出会い -人生の棚おろし⓾-」では、退職の頃に出会った人を通して感じたことについて書いています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました(^_^)
この記事へのコメントはありません。