前回は看護部長として2年間勤めたけれど、結果的に合わなかったというところまで書きました。
看護部長という、看護のトップマネジメントの仕事が合わなかったのか、組織そのものが合わなかったのかは今になってもわかりません。組織そのものに問題があったのかも知れませんし、組織の一員としての自分が異分子のようになってしまったという環境適応の問題もあるかも知れません。
いずれにせよ、自分という人間が組織の中の看護部長という立場に徹しきれないということに、はっきりと気づくことのできた2年間であったことは確かです。
看護部長ではあるものの、一般看護職や主任・師長を経験してきているわけですから、彼らの立場も気持ちもよくわかります。忙しい時のささくれだったような感情や、上司の言動をあれこれ気にしていたことなどを思い出すと、自分が「部長」として高い位置から指示をするだけでいることができなかったということがあるのですが、それは単に私自身の弱さでもあります。
人に嫌われたくない、部下に認められたい、病院に必要とされたい、そういう執着があり、それを捨てきれなかったところが自分の弱さです。
そして、そういった弱さは克服できるものではないということに、ある時気づきました。
自分の魂のレベルで、これは合わない、自分はここにいてはいけない、いるべきではないと感じたとでも言いましょうか。ここにいたら弱い自分は壊れてしまうのではないか、周囲に悪影響を及ぼしまた及ぼされるのではないかという危機感を感じ、気づいた時には病気になっていました。
心のひずみを無視し続け、体が悲鳴を上げてからやっと、私は自分が組織の中では自分の力を発揮できず、かつ周囲から煙たがられるタイプだと気づいたのです。
ある人に言われました。「よく今までその状態でやってきたね」と。
よく我慢した、よく頑張った、自分でもそう思います。
頑張ったとは思いますが、それはしなくでもいい努力だったようです。ただ私は、持論として嫌な経験でもなんでも、すべては糧になるという考えを持っているので、この看護部長としての経験はマイナスに作用することはなく、自分の中に石を積んでいくような作業だったと思うことができます。むしろ経験できてよかったとも思います。ただ、ここで気づけなかったらと思うとぞっとしますけどね。
ここまで我慢してしまった理由の一つとして、看護師たるもの組織で働くものだという先入観もあったと思います。また、組織に適応できない人間は社会に適応できない不具者であるという思い込みと偏見もあったと思います。今思えばとんでもないことです。
開業している看護師がいることは知ってはいましたが、自分とは縁のないことだと思っていました。だってお金もかかるしリスクもある、シングル家庭の子持ちの私には、最初からできないことだと、そう考えていたからです。
本当は、自分の人生において、自分がやりたいと思ってできないことなどないということに、その時は気づけなかったんですね。
親の教育や洗脳(あえて強い言葉を使えば)というものは凄いものです。良くも悪くも、親というのは子供に大きな影響を与えます。幼いころから苦労する母を見てきて、働いてお金を得ることは大変なことだし、勤め人が一番気楽でいいという母の言葉を聞いて、開業など考えてはいけないものだと無意識に決めつけていたのだと思います。
自分の可能性に自ら蓋をしていたということでしょうか。
認定看護管理者の資格を持っていたので、組織で看護管理をするのが人生の道だと考えていたことにも理由はあるかも知れません。将来、ゆくゆくは組織外でも活動できるという考えはありましたが、それはあくまでも思うように体が動かなくなった遠い将来の話という感覚だったのですね。
その昔、織田信長は敦盛の中で「人間50年」と謡いました。当時の日本人の寿命が50年程度だったことを考えると、今五十路を越えた私は本来死んでいる立場です。だったらもう、死んだ気でやりたいことをやろう、そう考えるに至りました。
あの時、体が悲鳴を上げ、自分自身の魂の訴えを聞き入れるよう警告してくれたのだと、今ではありがたく思います。
フリーランスは確かに不安定で、子供を育て生活を成り立たせていくには不十分であるかもしれない。だから準備をしっかりして、数年計画で独立することを考え始めました。このサイトもそのための準備のうちの一つです。
認定看護管理者、看護学修士、産業カウンセラー、3学会合同呼吸療法認定士などの資格を生かし、新たにいくつかの学びをプラスして、独自の事業を立ち上げようと考えています。
次回はフリーランスナースの可能性について、いくつか挙げて考えてみたいと思います。
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