仕事が辛くて仕方ない時でも、「仕事なんだから辛いのは当たり前」「辛いことを我慢して乗り越えるのが大人」と考えて、我慢してしまうことがあります。
思えば、私の人生はその我慢の連続でした。
我慢することが美徳という感覚が、日本人の中には強く刻まれているように思えますし、特に私の母は、その人生でまさに「耐える」ということを体現してきています。戦中生まれの女性なので仕方ない部分はあると思いますが、そんな母を見て、母の言うことを聞いて育ってきた私は、どうしても我慢できないのは大人ではないといったような感覚を、知らずに植えつけられてしまっているようです。
看護師になることを決めたのも、自分で望んだわけではなく、母に勧めるままという形だったので、看護師という職業に強い志を持って入職してくる人たちを見ると、恥ずかしい気持ちになったこともありました。
何故母が私に看護師という職業を勧めたのかというと、一生ものの資格が得られて安定した職業であるということに加え、私が子どもの頃から病弱で、常に病院のお世話になってきたからという理由からでした。
私は心臓に障害を持って生まれてきて、母の胎内から出た瞬間は全身チアノーゼで産声も挙げなかったので、母は死んで出てきたのだと思い、一度は諦めたといいます。
ですが、奇跡的に息を吹き返し、一命をとりとめました。のちに心臓に障害があることがわかったため、医師はおそらく1カ月も生きればいい方だろうと両親に告知したそうです。
私の心臓の障害はわりと重い方で、病院通いも長く続きました。
しかし、1カ月と言われていた命が2カ月、3カ月と続き、ついには1年が経過していました。
その頃には心臓の方もだいぶ落ち着いてきて、激しい運動などの無理をしなければ生きられるだろうというお墨付きを医師からもらい、見た目にはほかの子供たちとなんら変わらない1歳児となったのです。
実はそのあとも色々な病気を経験していて、母にはとても苦労をかけました。ですから母の中で私は「医療に助けてもらった子」という思いが強くあったようです。この子は医療に恩返しをするために命を救われ生かされたのだという考えが、私に看護師になることを勧めた本当の理由でした。
3歳くらいからの入退院については私もよく覚えていて、親と離れて入院しなければならない不安や、同室の年長者の子どもにいじめられたり仲間外れにされたりした時の辛さは、今でも昨日のことのように思い出すことができます。
特に、大きな小児病棟の中で迷子になってしまい、どこに行ったらいいかわからず彷徨い歩き泣いている時、偶然面会に来た父親に会うことができ、ほっとして泣きじゃくったときのことを思い出すと、今でも涙が出てくるほどです。
そんな入退院や通院を繰り返していた時代、優しい看護婦さん(当時はそう呼ばれていました)にあこがれ、馴染みの看護師に「大きくなったらカンゴフさんになりたいんだけど、どうやったらなれるの?」と聞いたことがあります。
実はその気持ちは、成長して小学生になった頃にはすっかりなくなってしまっていたのですが、母はその私の言葉を聞いてから、私は看護師になるものだと思っていたようです。
幼い頃、たとえ自分の意思でないとはいえ、病弱で心身にも経済的にも苦労をかけた母の願いを叶えるべく、その時やりたいことがあったにもかかわらず、その気持ちを抑えつけて看護師の道を選んだのが、私の看護師人生の始まりでした。
次回、病気がちだった16歳まで-人生の棚おろし⓶-」では、私の子どもの頃のことについて書いています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました(^-^)
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