前回の投稿、「芝居との別れ」では、高校時代にのめり込んでいた芝居をやめることになった経緯を書きました。
あんなに好きで、自分の命を救ってくれた大切なものであったはずの芝居を、親からの要求や自分の弱さから諦めることになったわけです。
思えばこの時点で、私は大きな選択ミスをしたのだと思います。でも、おそらく今生での私のテーマが、この「心の声に蓋をせずに生きたいように生きる」ということで、それができない状況を神-この呼び方が一番しっくりくるため、そう表現します-が作り出し、試練を与え続けたのだろうと、今では思っています。
まったくワクワクしない看護という人生の道を選び、大学を受験しました。高校の頃から家庭内が落ち着かず、父が荒れ母が暴言や暴力を受けるという状況が続いていたので、勉強にも全く身が入りません。イライラし大きな音でドアを開け閉てする父におびえ、受験勉強どころではありませんでした。家族が寝静まった真夜中から徐々にペースが上がってくるという有り様で、毎日明け方4時過ぎまで勉強していましたが、看護は理系であるにもかかわらず、化学や数学などが本当に苦手で、かつ集中することも難しい環境だったので、まるで自信のないまま受験シーズンを迎えたのを覚えています。
当然ながら、本命だった国立大学の共通一次次試験(当時は今のセンター試験のことをこう呼んでいました)は散々な結果に。二次試験で挽回しなければならない状況でしたが、この時点でもう無理だろうとうすうす感じていました。挽回できる点数ではなかったし、自分の実力をよくわかっていたからです。
結果、見事に二次試験でも玉砕。まったく歯が立たないというのはまさにこのこと。数学と化学がさんざんで、わりと得意だったはずの英語まで予想の得点を下回っていました。
滑り止めで受けた医療系短大2校のうち、入りたかった方もまさかの不合格になり、唯一合格した千葉県立の医療系短大に通うことに。
進みたくなかった道の中でも、一番進みたくなかった短大に進学することになったのですから、モチベーションは推して知るべし、です。
都内の自宅から1時間かけて、幕張にある短大に通い始めることとなります。
その時は、そこでできた新しい友人たちとの出会いは、そこに通わなければなかったものだと考えて、ここにきて良かったんだと思っていました。結果的に今の私という人間の基本的な部分を作った場所であり、期間であったことは確かなので、医療系短大に通っていたことを否定はしていません。ただ、やはり今思うと、看護を学ぶことにワクワクを感じたかというとまったくそれはなく、授業中はほとんど聞かずに別のことをしているような状態でしたし、看護を生きがいにできるのかというとそれもなく、部活や遊びの方に気持ちが逃げていたと思います。それでも定期テストはほとんど問題なく合格点を取れていたし、気の進まない看護実習もそれなりに友人たちと乗り越えていました。
今回のお話はこれでおしまい。
次回、「バンド活動が楽しかった短大時代 -人生の棚おろし⓻」では、短大時代に出会った友人たちと始めたバンド活動についてお話ししています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました(^_^)
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