わたしのヒストリー

娘を託児所に預けて -人生の棚おろし㉖-

前回、「看護管理者への道 -人生の棚おろし㉕-」では、復職した病院で初めて就いた看護管理の仕事について書きました。

今回は、病院に併設されている託児所に預けていた頃の娘の様子について書いていきたいと思います。

その病院は、院内に24時間託児所のあるところでした。私が復職を決めた理由の大きな決め手となったのは、そこに託児所があったことでした。

それも昼間だけでなく、24時間対応というのはあまり例がなかったので、子どもを持ちながら働く人をバックアップする体制が強固なのはありがたいと思ったのを覚えています。

復職したのは娘が1歳2か月を迎えた頃でした。まだあまり喋ることができず、二人だけ(わかめを入れて3人でしたが)で生活するのも初めてでしたので、なかなか思うようにいかないこともありましたし、結構な距離を電動自転車で通っていましたので、予想外のこともたびたび起きました。

特に冬の朝、娘を自転車の前のシートに乗せて、寒くないようにしっかりひざ掛けをかけたりして防備するのですが、手袋を初めてはめようとしたところ何故だかとても嫌がり(身体拘束されるような気分だったのでしょうか)、なかなかしてくれないことがありました。朝の時間がなかった時だったので、仕方なくそのまま発進したところ、案の定とても手が冷たく痛くなってしまったようで、手を真っ赤にしながら大声で泣き続けてしまったのです。道中何度か自転車を止めて、娘に説明して手袋をつけようと試みたのですが、話が通じない頃だったのでどうしてもだめで、小さな手が冷たく真っ赤になってしまったのを見て、不憫に思ったのを覚えています。

そんな娘でしたが、託児所の環境にはすぐに慣れました。慣らし保育の時、親の姿が見えなくなると泣いてしまう子もいるのですが、娘はもともと一人遊びが好きで得意だったこともあり、親がいなくてもあまり気にしなかったようです。親の私としてはいいのか悪いのか、複雑な心境ではありましたが、仕事をするにはありがたいことだと思ったので、安心しました。いろいろな年齢の子供たちがいるので、そういう環境の中で揉まれて、少しずつ成長していったのがこの頃です。

病院の行事に参加したことも何度もありました。患者さん向けの行事としてクリスマス会のキャンドルサービスを行っていて、そこに託児所の子供たちがサンタクロースや天使の恰好をして、病院職員といっしょに各病室をまわり、プレゼントを渡すというものがありました。子供たちはコスプレ姿に満足していましたし、患者さんたちも大感激して下さり、中には涙を流して喜ぶ方も何人かおられ、とても良い経験をしたと思います。
また、職員向けの歓送迎会や忘年会、職員旅行などに一緒に連れて行ったこともありましたが、職員はみな娘をかわいがってくれました。

大勢の大人と接することや、いろいろな年代の子供たちと接することを覚え、社会性を身につけたのがこの頃です。母が病院という場所で働いていることを認識することになったのもこの頃だったと思います。

病院の隣には小さな公園があり、午前中はそこで保育士さんたちが子どもたちを遊ばせているのですが、時々時間があると様子を見に行って、子どもたちが遊んでいるのを眺めたこともあります。患者さんを散歩におつれしたこともありました。とてもいい環境だったと思います。

3歳を目の前にしたある時、保育士さんがおむつが外れるようにトライしてくれて、3~5日くらいでおむつが外れたということがありました。〇〇ちゃんはおねえさんパンツにしてるよ、というほかの子の情報を娘に伝え、おねえさんパンツはいてみる?と問いかけたところ、チャレンジする気になったとのことでした。いろいろな年代の子供がいることは、そういった場面で役に立つし、娘より小さな子が入ってくれば、面倒を見るといった役割行動をとることにもつながるし、一人っ子の娘にとっては、うってつけの環境だったと思います。おねえさんパンツというのは普通の布パンツのことですが、保育園から借りたものをはいて家に帰ってきたとき、とても誇らしげにしていたのを覚えています。

毎日連絡ノートで娘の様子を知り、仕事で疲れたら託児所に迎えにいって娘の顔をみることで疲れが取れるという感じでした。24時間みてくれましたので、私が認定看護管理者のコースに通っていたときも、帰りが22時頃になってしまいましたがちゃんと捕食を食べさせて、待っていてくれました。あの託児所のある環境でなければ、私は認定看護管理者になることはできなかったと心の底から思い、感謝に耐えません。

結局その託児所には4歳までお世話になりました。5歳になる年からは、現在住んでいるところに引っ越しが決まっていたので、地元の保育園に預けることになったからです。私は娘を母に託し、朝早く家を出て、片道2時間近くかかる道程をしばらく通っていましたが、そののち近所によい仕事が見つかったため、管理職として最初につとめ始めたその病院を退職することとなります。

お世話になった保育士さんたちとお別れするのは辛かったですが、あの託児所で過ごした経験は知らず知らずのうちに娘の中に影響を残していることと思います。ただ、今になってあの頃のことを覚えているか尋ねると、記憶はおぼろげなようです。

しかしはっきりと覚えていることがいくつかあって、その一つに私が患者さんの車いすを押して公園に行ったときに姿を見かけた時のことがあります。娘はそれがきっかけになったのかどうか、「将来は看護師さんになって、ママの車いすを押してあげるからね」と言ってくれるようになりました。

看護師は大変な仕事ですが、素晴らしい仕事だと思います。娘にはいろいろな経験を積んでほしいと思うので、充分に考え情報を集め、自分の本当に進みたい道に進んでほしいと願ってやみません。

娘の幼い頃のことは書き始めるときりがないので、今回はここまでにしておきますね。

次回、「女手一つで家を建てる -人生の棚おろし㉗-」では、今の家を建てることになった経緯についてお話ししています。

最後までお読みくださり、ありがとうございました(^^)

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