人は信仰を持つことで心から自由になれると昨日の記事(リンク先参照)で書きましたが、今日はそれとは正反対のケースについてお話ししたいと思います。
信仰を持つことで、かえって不自由になってしまう人たちのお話です。
日本古来の信仰である神道には教義がありません。
なので、神を信じ日々感謝を届けることで、常に神を近くに感じることができるため、不安になったり追い込まれたりすることなく、心が自由になるということを昨日の記事に書きました。
一方、一般的な他の宗教には教義があり、「〇〇してはならない」「〇〇しなければならない」という縛りがあるものがほとんどですから、精神的・身体的、かつ時間的にも制約を受けます。
食べ物や飲み物を禁止する教義を例に挙げるとわかりやすいでしょうか。
もちろん、そういった教義には根拠があり、多くの信者が長きにわたり守ってきているわけですから、悪いことではありません。
教義を守り、心が満たされ、幸せだと感じられれば、信仰の目的は達成されているのです。
しかし、逆にその教義を守らなかった場合はどうでしょうか。
ついうっかり、食べてはいけないとされている食材が入っている料理を口にしてしまったとか、飲んではいけない成分の入った飲み物を飲んでしまったとかいうケースです。
後からそのことに気づいて、強い罪悪感や教義に背いたことに対する恐れが生まれてしまうといったこともあるでしょう。
また、けがをしたり病気になったりなど、自分や家族に災いが降りかかった場合、これまでの信心が足りなかったと解釈し、多額のお布施を納めなければ救われないのではないかと考えて、借金してまで教団にお金を納めるというケースもあります。
本来、信仰とは心の拠り所であり、心の自由を獲得するための手段であるはずなのに、その信仰によって考え方や行動が強く規制されて、不自由を強いられている人が多いように私は感じます。
ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」の中に、キリスト教の教義を神が否定する場面が出てきます。
神は、〇〇をしなければ罰せられるとか、〇〇すれば祝福を受けられるとか、そういったことを言った覚えはないというのです。
それは「神との対話」全3巻のシリーズの中で、繰り返し述べられていることです。
神はいついかなる時も、私たちと共にあり、すべてのことを肯定している。
なぜなら、この世には良いことや悪いことがあるのではなく、ただ出来事のみがあるからだと、神は筆者を通じて語っています。
良い悪いを判断するのはその人自身であり、この世には絶対的な良いことも悪いことも存在しないというのが、その理由です。
だから、これをしなさい、あれをしてはいけないという神は、本来いないはずだと、神は言うのです。
教義に背いたときに感じる罪悪感は、最も引き寄せを遠ざける感情だと言われています。
罪悪感は自分の心を縛り、自己否定を強めます。
本来信仰とは、自己肯定感を高めるためのものであるはずなのに、逆に自己否定を強めるという結果になってしまっては、本末転倒です。
信仰に心も身体も縛られてしまうのは、とても不自然なこと。
魂の声が聞こえなくなり、教義を守らなければという思考で行動が規定されてしまう不自然な状態です。
私が特定の宗教ではなく神道に惹かれるのは、このあたりのことが理由なのではないかと、最近思うようになりました。
魂はいつも自由を求めています。
信仰はその自由を加速させるものであってほしいと、そう思う今日この頃なのです。
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